久しぶりの自宅

6日の夕方から8日の夕方まで外泊許可がでたので2週間ぶりの自宅。

まったく、予期せぬ入院だったの、自分の机の周りの雑多なものはそのまま。
長期間、家を空けたような気がしない。

子供たちも、「おかえり」と意外と普通^^;
長男は高校の部活の合宿にて不在。
それ以外は、普段と変わりない生活。

自宅で食べる晩御飯はうまいなぁ。
ビールもレギュラー缶を1本。これもうまい!

夜も自分の布団は快適。
病院での早寝早起きの習慣がついているので、子ども達よりも先に就寝。

翌日7日は、イカダに一緒に出場した地元のボランティアグループの面々が、市民センターに集まってお見舞いをしてくれることに。
久しぶりにみんなに会えて、うれしい反面、なんだか照れくさいというか、申し訳ないというか。
せっかくの楽しいイカダレースを、僕のために大変な1日にしてしまって。

11時に、みんなと再会。
涙が出そうになる。
話を聞けば聞くだけ、やっぱり大変なことだったんだと、他人事のよう思ってしまう。
写真や当時の模様を説明されるが、やっぱり記憶はない。

でも、本当に全てのことが、奇跡的によい結果になり、そのリレーで無事に生還できたことは実感できた。

今日も、11時から昨日都合が会わなかった仲間に再会。

本当に有難い話だ。
よい仲間に恵まれた。

肝心のイカダの結果は7位

なんと、ゴールの時間、11時14分は、僕が病院に搬送された時間と同じでした。
同時にゴールしたみたい(笑)

入院生活

一般病棟に移ってからの入院生活。

■8月2日
車椅子も要らなくなり、病棟内を歩く許可が出た。
まずは、色んな検査。採血、胸部レントゲン、心エコー。

心臓マッサージの際の胸の痛みが残るが、骨には異常はないようだ。

直前に一緒にイカダに出ようと誘った新聞記者のN君がお見舞いに来てくれた。N君が最初に心肺蘇生をしてくれた。
まさに命の恩人。

上司2人もお見舞いに。
手続きやら、色々といてもらったいた。
ありがとうございます。

また、PCも持ち込んで談話スペースで、ネットもつながるように。
やっと普通の生活に近づいた(笑)

■8月3日
今日からリハビリが始まった。
筋力の落ちた足の運動と、心臓への負荷を適度に与えてみるらしい。

シャワーの許可が出た。
久しぶりにさっぱり!

■8月4日
CTを撮る。

地元のボランティアグループの方がお見舞いに来てくれて、千羽鶴を頂く。
しかし、検査で不在にしていたので会えずじまい。スミマセンでした。

■8月5日
トレッドミル検査
ルームランナーのような機械で、心臓に負荷を与えて心電図の変化をみる。
結構なスピードで走った。はぁーはぁーと息が切れる。
結果は異常なし。

■8月6日
主治医より、結果の説明がある。

今までの検査では異常は見られない。
しかし、一度発作を起こしているので、またいつ心室細動が起こるかわからない。
起こったときに、自動的に徐細動ができるよう、埋め込み型のAEDである「ICD(埋め込み型徐細動器)」を入れることを勧める。
また、月曜日に、心臓カテーテル検査をして、原因の究明を試みる。
冠動脈造影や、痙攣を誘発するテストをする。
万が一の時のために、家族の付き添いが必要。

薄々は、ICDだろうとは思っていたが、やはり埋め込みたくはない。
悩ましい。

説明後、一時帰宅の許可が出ていたので、2週間ぶりに自宅に帰れることに。

九死に一生を得る(その2)

引き続き、記憶のない部分をメモしておこう。


病院に搬送された僕は、脳へのダメージを最小限にとどめるために、低体温療法を受けることに。
体温を32度から34度まで下げて、脳を保護するという。

この時、病院に駆けつけた妻と僕の上司が説明を受けたらしいが、心肺停止時間が長かったので、後遺症が残るかもしれない。社会復帰できる可能性は1〜2%といわれた。

ICU(集中治療室)でしばらく治療が続く。

■7月26日
ほぼ冬眠状態。
睡眠薬にて意識なし。

■7月27日
徐々に通常の体温へ戻していく。
睡眠薬にて意識なし。

■7月28日
ほぼ正常な体温に戻る。
睡眠薬にて意識なし。
治療はほぼイメージどおりに進んでいる、との先生の言葉。

■7月29日
睡眠薬が切れて、徐々に意識が戻ってくる。

と、ここまでが意識がなかった頃のメモです。
この先は、ちゃんと自分自身覚えています。

【この先自分の記憶】

目が覚めたら、病院のベッドの上。
何があったのかまったくわからない。
妻から、事の顛末を聞くが、イカダに出たことすらまったく思い出せない。

今日は29日。一体今まで何をしていたのか。

体には、点滴や管が。鼻には酸素チューブが。
しゃべろうにも、声がかすれてしゃべりづらい。

いろんな事が一気に不安になったが、なんだか、なるようになれって感じになる。

この時は、まだボーとしていたので、現状を受け入れるので精一杯だったんだろう。

実家からは両親が駆けつけてきてくれている。
ありがたい。

その日の夜は、目を瞑ると得体の知れない模様のようなものが襲ってくる感じがして、薬をもらって眠った。

■7月30日
上半身を起こすことができるようになる。
胸が痛むが、手足は特に違和感もない。
点滴が邪魔だが、体全体に違和感はない。

お昼は、おかゆではあるが、ちゃんと口から食事が取れるようになる。

妻や交代した看護士さんから、昨日までの状態からは想像がつかないと、かなり驚かれた。

奇跡的な回復らしい。

救助にあたった救命士のYさんが面会に来てくれた。
回復振りに驚いたようで、涙の再会(^_^)

■7月31日
ゆっくりだが、立ち上がれるようになる。
食事も3食、ちゃんと食べれるようになる。
トイレもポータブルを使えるようになる。

何度か別途の横に立ったりして、徐々に歩く感覚を取り戻す。
色んな検査の結果も全て異常なし。

■8月1日
ほぼ通常の状態に回復。
後遺症もない様子。

無事に、午後には、一般病棟へ移動。
病棟内では、車椅子に乗って自由に移動できる許可がでた。

点滴も、短時間ですむようになった。

まだ、心臓マッサージの後遺症で胸が痛む。
人工呼吸器の後遺症の、声のかすれも続いている。

イカダチームリーダーのNさんが、みんなで作った千羽鶴をもってお見舞いに来てくれた。
意識のないときにも何度も来てくれている。

皆さんに本当に心配をかけていたことを再認識。
ありがたい。

支えてくれた妻、そして家族に感謝。
また、地元や職場、NPOの仲間に感謝。

九死に一生を得る

sabo22010-08-05

今、こうしていられるのが不思議なくらい。

7月25日に心肺停止にて倒れて、生死の境をさまよった後に、無事に生還しました。
何が起こったのか、本人はまったく記憶がないのだが、皆さんから聞いたことを記録に残しておきます。

不明確なところもあるので、これは一時的なメモとして。


7月25日(日)は、遠賀川イカダ川下大会。地元有志のチームで出場。
飯塚から直方までの約23キロを5区間に分けて下るタイムレース。
僕は、その1区と2区に乗った。
イカダを降りた後は、区間の乗り換えポイントである、堰越えをサポートしながら車で伴走。

この先は、本人はまったく覚えていないので聞いた話です。


僕は、レースも終盤、5区の最初の関門である、もぐり橋(川が増水したら沈むくらい低い人が歩く専用の橋)を越えるのをサポートすべく、信号待ちで渋滞していた伴走車から、ひとり飛び出して、河川敷に降りていった。
イカダに追いつこうと、河川敷を全力疾走。

■10:40頃
数十メートル走ったところで、突然倒れる。
このとき、心室細動という状況になり、心臓が痙攣をおこしてポンプ機能を果たさなくなっていた。

その直後、渋滞を抜けた伴走車から仲間2人が河川敷に降りてくる。

当日は、花火大会の日でもあり、河川敷ではその準備も進められていた。
その準備に携わっていた商工会議所のスタッフが、倒れている僕に気がつき、お揃いのTシャツを着ていた仲間二人に、倒れていることを知らせる。

急いで、倒れている僕のところへ駆けつけたら、「きをつけ」の体制でうつぶせに倒れていた。
仰向けにさせ、顔についている芝生や土をタオルでふき取り、呼吸を確認したが、止まっていた。

2人とも、初めてのことだったが、心臓マッサージと人工呼吸を開始。
救急隊へも通報。

その時、偶然にも近くに自衛隊の人たちが。
第一発見者の商工会議所のスタッフが、自衛隊に助けを求める。

自衛隊の隊員2人が駆けつけ、飲み水をかけて体を冷やし、心肺蘇生を引き継ぐ。

■10:47
救急隊が到着
AEDなどの準備

偶然にも、僕の友人の救命士の方でした。

■10:54
AED装着

■10:55
1回目の電気ショック
復帰せず。
瞳孔も開いていないため、再度チャレンジ。

■10:57
2回目の電気ショック
復活!! 徐細動成功!

■11:14
病院到着

つづく

充実した日々を一日一日しっかり過ごす


今日は、FAJの定例会で「あなたにとって幸せとは何ですか」という問いに挑みました。
色々出たけれど、結局はこうなのかな、と。

目標とか夢とかあるけれど、やはり毎日をしっかり過ごすことは、想像以上に難しいことかも。

ためらってはいけません

“He who hesitates is lost.”(ためらう者は好機を逃す)
何かチャンスがあるのなら、ためらわずに挑戦してみる。
失敗したっていいじゃない、ということわざです。

あるメルマガの言葉。

そうなのかもしれない。

人類が去った後、ゴリラに希望はあるのか

sabo22010-02-16


津屋崎にて、2日間の「新しいまちづくりの学校」に参加。

テーブルファシリテーターとしての参加でもあり、今までの中でも一番の満足感&高揚感。

その高揚感が去った後に現れたのが、新たな命題。

出現する未来 (講談社BIZ)

出現する未来 (講談社BIZ)

エピローグに紹介さてている「人類が去った後、ゴリラに希望はあるのか」ということば。

ゴリラも他の動物も、人間によってその生命が脅かされている。
では、果たして、人類がいなくなれば問題は解決するのか。

課題は、果たして本当に課題なのか。

  • 自然を破壊する人類がいなくなればゴリラは絶滅しないのか。
  • ビルを立てなければよかったのか。
  • 道をつくらなかればよかったのか。
  • 農耕をしなければよかったのか。
  • 狩りをしなければよかったのか。
  • 人類は誕生しなければよかったのか。
  • なぜ、人類は誕生したのか。

モヤモヤとした中で「まちづくり」ということについて改めて考えてみる。

・古民家再生や古い町並みの保存
里山を守ろう、自然を守ろう
・道路やダムは自然破壊だ

古民家も、その当時は普通の民家だったんじゃないのか。
里山や自然も、むかしは取り立てて言うものではなくその辺にあったもの。
道路だって昔からあったもの、ちょっと立派にはなりすぎたけど。

もしかしたら、僕らが求めているものは
「古民家」ではなく「古民家を再生しているぼくら」
里山」ではなく「里山を守ろうとしているぼくら」
「道路の無い世界」ではなく「道路反対、と運動しているぼくら」

まちはできるのか、つくるのか。

今のまちは出来損ないなのか。

過去に戻ろうとしているのか、未来へ進もうとしているのか。
どこへ進もうとしているのか。

もう一回考えてみたい「まちづくりって一体何なんでしょう?」